1762年の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 15:54 UTC 版)
「第一次セバーヨス遠征」の記事における「1762年の遠征」の解説
1762年1月、カルロス・ホセ・デ・サリア率いるフリゲートのビクトリアはカディスを出港してブエノスアイレスへ向かい、リオ・デ・ラ・プラタ総督(英語版)ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨスにサクラメント攻撃の命令書を手交した。 セバーヨスは準備をはじめ、9月までに人員と艦船を用意した。艦隊はラプラタ川を進め、9月14日に軍を上陸させた。27日にインディアンが加勢し、スペインの軍勢は4千人近くにふくれあがった。サクラメントの包囲は10月5日に始まった。 陸軍の司令官セバーヨスと海軍のサリアの関係は悪かった。陸軍が上陸した後、サリアはセバーヨスの許可なく艦船16隻とともにブエノスアイレスへ引き返した。しかし、スペインにとって幸運なことに、ポルトガル軍は全く準備しておらず、守備軍は歩兵400人と非正規軍367人しかいなかった。このため、サクラメント総督ヴィセンテ・ダ・シルヴァは10月31日に降伏した。
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