1169年の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 12:09 UTC 版)
「ノルマン人のアイルランド侵攻」の記事における「1169年の侵攻」の解説
ティロンの首領であったアイルランド上王ムルタ・マクロクリン (en:Muirchertach Mac Lochlainn。1166年没) の保護を失った後、マクモローは、新たな上王であるローリー・オコナー (en) の旗下のアイルランド人の連合軍によって追放された。 マクモローはブリストルに最初逃亡し、後にノルマンディーに逃げた。彼は自身の王国を取り戻すためにヘンリー2世の名前を使う許可を求めてこれを認められた。1167年までにマクモローはモーリス・フィッツジェラルド (en) の支援を取り付け、後にデハイバース (en) の王子レス・アプ・グラフィズ (en) に対して、フィッツジェラルドの異母兄弟であるロバート・フィッツステファン (en) を遠征に参加するために解放するよう説得した。最も重大なこととしてマクモローはストロングボウとして知られるペンブローク伯リチャード・ド・クレア (en) の支持を取り付けた。 最初にアイルランドに上陸したノルマン人騎士は1167年のリチャード・フィッツゴッドバード・デ・ロシュ (Richard fitz Godbert de Roche) であったが、ノルマン、ウェールズ、そしてフランドルの主力がウェックスフォードに上陸したのは1169年であった。なお、ダーマットがレンスターを回復した短い間、ウォーターフォード (en) とダブリンはその支配下にあった。ストロングボウはダーマットの娘であるイーファ (Aoife) と結婚し、彼はレンスター王国の後継者に指名された。この後継者指名にヘンリー2世は驚愕し、アイルランドにおいて自国に対抗するノルマン人国家の成立を恐れた。そのためヘンリーは自身の権力を確固たるものにするためにアイルランド島に存在する地方、レンスターに赴くことを決めた。
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