高林 拓二
高林拓二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/10 05:24 UTC 版)
| 高林拓二 七段 | |
|---|---|
| 名前 | 高林拓二 |
| 生年月日 | 1942年5月21日 |
| 没年月日 | 2019年7月7日(77歳没) |
| プロ入り年 | 1961年 |
| 出身地 | 石川県金沢市 |
| 所属 | 日本棋院東京本院 |
| 師匠 | 大窪一玄九段 |
| 段位 | 七段 |
| 概要 | |
| 通算成績 | 750戦302勝443敗5持碁(.428) |
高林 拓二(たかばやし たくじ、1942年5月21日 - 2019年7月7日)は、日本棋院東京本院所属の囲碁棋士。七段。石川県金沢市出身、大窪一玄九段門下。多くの内弟子を取り、後進の育成に努めた。
人物
石川県金沢市出身。小学4年生の時、友人に教わって囲碁を始める[1]。父もアマ県代表クラスの実力があったが、直接囲碁を教わることは無かった[1]。
13歳の時に上京して日本棋院東京本院の院生となり[1]、1957年に大窪一玄に弟子入り。この頃は父が満足に仕送りを送れる状況になく、囲碁の指導で自らの生計を立てるなど、厳しい環境が続いた[1]。1961年、18歳で入段を果たす。
1964年に三段に昇段するが、そこで一度囲碁界を離れる[1]。15-16歳の頃から「人間は何のために生きるのか」と疑問を抱き、プロ入り後には名人や本因坊になることに意味があるのか、とも考え出す[2]。その頃に出会った信仰に惹かれ、囲碁と決別。伝道師としての活動を開始する[2]。日本全国を巡回したほか、三度向かったアフリカでは、一時は家族で中央アフリカ共和国に移住する話も進んでいた[2]。
その間も散発的に手合に出場していたが、1986年より本格的に棋士として復帰[2]。囲碁を離れ、信仰の道に一時進んだことについては、悔いはないと語っている[2]。
2005-2006年頃より内弟子を取り始め、後進の育成に努める[3]。そのために広い家に移住し、多いときには10人前後の内弟子を抱えた[3]。9.11のような事件が発生し混乱に陥るなか、地面に碁盤を描き石を並べると混乱が静まるという、示唆的な夢を見たことなどもあって、プロを夢見る子供は積極的に受け容れた[3]。
囲碁については「いかに自分の気持ちをコントロールするかが大事」と語っており、弟子たちとも真剣に対局した[4]。高林の死後に入段した日野勝太は、高林との対局数は1000局以上にも及んだと述懐している[5]。内弟子との真剣勝負を続けることで自身の成績も向上し、また、一時は見失っていた囲碁の良さに改めて気づけたことを2018年のインタビューで語っている[4]。
内弟子時代について、許家元は、毎朝6時に起床し、掃除・体操の後に授業を行う生活であったと語っている[6]。小池芳弘は、テレビを見たりゲームをしたりもせず、自宅に帰るのもお盆と正月の数日程度であったが、そうした指導方法に特に不満を感じたことは無かったと振り返っている[7]。
また、高林の内弟子と、洪清泉が主宰する洪道場の道場生はライバル関係にあったというが、一方で高林が高齢化し、指導が困難になった際には小池や日野の指導を洪に依頼した。日野がプロ入りを果たした際に、洪は「先生との約束を果たしてホッとしました」「先生も喜んでくださると思います」と語っている[8]。
病院嫌いだったといい、大腸癌を患ったのち、多臓器不全により2019年7月7日、77歳で死去[9][10]。弟子たちには、「人間性も磨いて、立派な棋士になりなさい」と言い残した[9]。棋士としての実績は、2006年の第15期竜星戦で優勝決定トーナメントに進出など[11]。生涯成績302勝443敗5持碁。
門下生(入段)
| 棋士 | 入段 | 段位 | 生年 | 齢 | 実績等 | 外部 リンク |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 富士田明彦 | 2007年 | 七段 | 1991年 | 33歳 | 2013年新人王戦優勝、2018年若鯉戦優勝、2023年・2024年名人戦リーグ入り、2023年本因坊戦リーグ入り | [12] |
| 伊藤優詩 | 2008年 | 五段 | 1991年 | 34歳 | [13] | |
| 許家元 | 2013年 | 九段 | 1997年 | 27歳 | 碁聖1期、十段2期、2015年新人王戦優勝、2021年第28期阿含・桐山杯優勝、2022年テイケイ杯俊英戦優勝 | [14] |
| 外柳是聞 | 2014年 | 五段 | 1994年 | 30歳 | 2022年新人王戦優勝 | [15] |
| 張瑞傑 | 2014年 | 六段 | 1999年 | 26歳 | 2025年新人王戦準優勝 | [16] |
| 小池芳弘 | 2016年 | 七段 | 1998年 | 27歳 | 2018年・2022年・2023年若鯉戦準優勝、2019年新人王戦準優勝 | [17] |
| 日野勝太 | 2022年 | 二段 | 2005年 | 20歳 | (高林の最後の弟子にあたる[5]) | [18] |
昇段履歴
- 1961年 入段
- 1962年 二段
- 1964年 三段
- 1991年 四段
- 1996年 五段
- 2000年 六段
- 2019年 七段(追贈)
脚注
- ^ a b c d e “読売新聞 岡目八目 高林拓二さん (1)三段の時一度碁から離れる”. 読売新聞オンライン (2018年1月9日). 2025年10月10日閲覧。
- ^ a b c d e “読売新聞 岡目八目 高林拓二さん (2)伝道師になりアフリカへ”. 読売新聞オンライン (2018年1月16日). 2025年10月10日閲覧。
- ^ a b c “読売新聞 岡目八目 高林拓二さん (3)弟子と全身全霊で対局”. 読売新聞オンライン (2018年1月23日). 2025年10月10日閲覧。
- ^ a b “読売新聞 岡目八目 高林拓二さん (4)弟子を育てて碁を見直す”. 読売新聞オンライン (2018年1月30日). 2025年10月10日閲覧。
- ^ a b “囲碁・日野勝太初段「師匠の前で恩返ししたかった」高林拓二七段最後の弟子”. 日刊スポーツ (2021年10月5日). 2022年10月10日閲覧。
- ^ “日本圍棋史上最年輕「碁聖」得主 他竟然是位台灣人” (中国語). 信傳媒 (2018年12月19日). 2022年10月10日閲覧。
- ^ “LIBRA 2018年3月号”. 東京弁護士会. p. 44. 2020年10月10日閲覧。
- ^ “勝太、入段おめでとう!”. 洪道場ホームページ (2021年7月1日). 2022年10月10日閲覧。
- ^ a b 伊藤洋一 (2021年5月26日). “令和の囲碁界牽引する許家元新十段 攻めの棋風、休日はアウトドア派”. 産経ニュース. 2022年10月10日閲覧。
- ^ “囲碁の高林拓二六段が死去”. 産経ニュース (2019年7月8日). 2022年10月10日閲覧。
- ^ “第15期 竜星戦”. 日本棋院. 2022年10月10日閲覧。
- ^ 富士田明彦
- ^ 伊藤優詩
- ^ 許家元
- ^ 外柳是聞
- ^ 張瑞傑
- ^ 小池芳弘
- ^ 日野勝太
外部リンク
固有名詞の分類
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