駿府陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 09:56 UTC 版)
「薩埵峠の戦い (戦国時代)」の記事における「駿府陥落」の解説
武田軍の先鋒であった馬場信春は直ちに賤機山城を占拠して今川軍の退路を断った。このため、今川氏真の計画は破綻し、やむなく重臣で未だなお今川氏に従っていた朝比奈泰朝がいる遠江の掛川城に向かって落ちのびることになった。この時、北条氏康の娘であった氏真の正室早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出したという。かくして今川氏の本拠地であった駿府は1日持たずに陥落することとなった。 馬場信春は駿府の町と今川館を焼き払って廃墟にした。実は武田信玄からは今川館には今川氏代々の貴重な宝物があるために火をかけてはならないと命じられていたが、信春は敢えてこれらの宝物ごと焼き払ったのである。その後、そのことを追及された信春は「武田氏は今川の財宝が目当てで駿府を攻めたと思われては名折れである」と開き直り、信玄もこれを了としたと言われている。雑兵や夫丸らが乱妨取りに熱中し氏真追跡を怠ることを防ぐためが本質とも考えられる。 一方、相模の北条氏康は今川氏真の要請を受けて出陣の準備を整えていたが、整わないうちに駿府が陥落したという報が入った。愛娘の早川殿が乗り物にも乗れずに徒歩で脱出したという報を受けた氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送っている(『歴代古案』)。
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