首都開城陥落と降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「首都開城陥落と降伏」の解説
サリクタイ・コルチに率いられたモンゴル軍は、鴨緑江を越え、瞬時に国境の義州を陥落させた。このとき高麗の将軍の洪福源(ホン・ボグォン)は1,500戸を引き連れてモンゴルに降伏した。高麗軍は安州および亀城で迎撃したが、モンゴル軍は安州を落とした後、亀城を包囲したが落とせなかったため、サリクタイはこれを無視して一挙に首都の開城の攻略に成功した。首都の陥落を受け、高麗朝廷はモンゴルの侵攻に抵抗できないことを悟り、講和を求めることとなる。これに対しモンゴルは、1万枚の毛皮、2万頭の馬、100万人分の軍服および大量の奴隷など大量の貢物を要求した。 サリクタイは1232年春、主力軍を北に撤退させたが、高麗が講和条件を守るかどうか監視させるためもあり、開城その他の都市に72人の「ダルガチ」(統治官)を配置した。
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