飽海神戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 16:23 UTC 版)
歴史学者の太田亮は地誌書『三河国二葉松』を根拠として、「飽海本神戸・新神戸は、和地荘の神戸七郷を指す」としており、羽田八幡宮(豊橋市)神官の羽田野敬雄が『三河国古蹟考』で「(飽海本神戸・新神戸は)幡太郷飽海村」としているのは誤りだと糾弾している。なお、幡太郷の比定地や渥美・飽海の比定地において、現在の田原市であるとする説と豊橋市であるとする説の両方があり対立している。 安久美神戸神明社という社名は戦後に改称されたものである。明応6年11月17日の安久美神戸神明社棟札銘などには新神戸郷が見える(豊橋市史5)。天正6年12月13日の安久美神戸神明社棟札にも「飽海郡新神部宮司盛秀」と見え、吉田城主酒井忠次は造営のため馬1疋を進献している(豊橋市史5)。これらの棟札を根拠として、豊橋市史では、飽海村は飽海新神戸であったとする説を主張している。ただ、安久美神戸神明社棟札以外に、新神戸郷とする資料は見当たらない。永禄3年12月2日の今川氏真安堵状に「参河国渥美郡飽海郷」。天正18年12月20日池田輝政「あくみ・吉田方両所之内」(豊橋市史)。戦国時代の同時代史料には、飽海郷(あくみ)となっている。
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