頼興没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:47 UTC 版)
弘治3年、家督相続に不満を持っていた上村頼興の三人の子息頼孝、頼堅、稲留長蔵は反乱を起こした。義陽は6月10日に豊福城主の頼堅を八代の兵で討ち、福善寺に逃げた頼堅を捕えて同月13日に斬った。頼孝は久木野城に籠ったが、義陽の包囲軍は、頼孝の援軍に来た菱刈重任も返り討ちにし、7月25日にこれを落して、頼孝は菱刈に逃亡した。義陽は薩軍の増援を得て、大畑城・上村城・岡本城を攻撃して鎮圧。頼孝・長蔵は北原氏を頼って日向飯野に逃亡した。後の永禄3年(1560年)、僧を派遣して説得した結果、7月29日に士卒700名と共に頼孝が、その後に長蔵も帰参するが、これは偽計で、ほとぼりの冷めた永禄10年(1567年)に共に攻撃されて切腹を強いられた。
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