雲水のころ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 09:50 UTC 版)
永平寺の学寮にいた頃の話である。ある朝、誰の仕業か、寺の釣鐘が下ろされていた。朝夕の行事の合図の鐘を鳴らすことができないため、困った雲水たちが総がかりで吊り直そうとしたが、鐘はびくともしない。そこへ物外がやってきて、「うどんをごちそうしてくれたら上げてやる」と言った。これを雲水たちが了承すると、物外は独りで軽々と鐘を持ち上げて、元の位置に釣下げた。「犯人」はむろん物外で、その後もうどんが食べたくなると、釣鐘を下ろしておいたという。永平寺には物外の手形のついた柱があり、指の痕が4本まで判然としていたと伝わる。 加賀の大乗寺では、「安芸の物外」といわれ、寺の柱を持ち上げて下に藁草履を履かせるなど、凝った悪戯をした。あるとき、寄食している雲水たちと役僧たちとで大喧嘩になり、これを取り鎮めるために寺の大旦那だった本多安房守が兵を差し向けた。しかし、兵の誰ひとりとして物外にかなう者がなく、片っ端から物外に本堂に投げこまれ、入り口の扉を閉められてしまった。大乗寺には3人がかりでないと動かないほどの大木魚があったが、このとき物外は独りでこれを投げつけて、割れ目を作ったという。この大木魚は現存する。 金沢滞在中、加賀前田家に新規召抱えになった、戸田流を創始した戸田越後守と力比べして決着がつかず、引き分けたという話が残る。勝負は橋の上で始まったが、橋の欄干が壊れて二人とも墜落した。しかし落下した河原でも組み合いが止まらず、河原の小石が十間から二十間も掘られたという。
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