ずいとく‐じ【随徳寺】
随徳寺
- ズイト行クといふを、寺の名にとりなしていふなり。〔驪山比翼塚〕そいつを殺して本国を随徳寺とやつたげな。
- 出奔して後を晦(くら)ますこと。「-をきめこむだ」。
- あとを構はず逃げ出すこと。そのままに、ずゐと(直ちに)為すとの義を寺の名になぞらへていへるもの。
- 一目散に逃げ去ること。一目散随徳寺の意。
分類 東京
随徳寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:40 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動随徳寺(ずいとくじ)
- 寺の名称の一つ。
- 「ずいっと出ていく」を寺の名称のように洒落た地口の一種。「とんずらする」の意。「一目散」を山号化した「一目山随徳寺」ともいう。山号寺号を参照。
- 東京都台東区に実在する寺の名称。本項にて解説。
随徳寺 | |
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所在地 | 東京都台東区下谷2-18-7 |
位置 | 北緯35度43分21.8秒 東経139度47分3.2秒 / 北緯35.722722度 東経139.784222度座標: 北緯35度43分21.8秒 東経139度47分3.2秒 / 北緯35.722722度 東経139.784222度 |
山号 | 光雲山 |
院号 | 慈現院 |
宗派 | 真宗大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 寛永14年(1637年) |
法人番号 | 7010505000322 ![]() |
随徳寺(ずいとくじ)は、東京都台東区にある真宗大谷派の寺院。
歴史
1637年(寛永14年)に開山された。元々は湯島に位置していたが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼け出された。幕府より、代替地として麻布広尾(現・港区南麻布周辺)の地を提示されたが、遠隔地であったことから、幕府に再度頼み込んだ結果、現在地を提示され、移転した[1]。
墓地には、江戸時代のテクニカル分析「酒田五法」を編み出した相場師の本間宗久の墓がある[2]。
交通アクセス
脚注
参考文献
- 東京市下谷区 編『下谷区史』東京市下谷区、1935年
- 河合敦 著『豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか』PHP研究所、2014年
「随徳寺」の例文・使い方・用例・文例
- 随徳寺を極める
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