長興寺村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:15 UTC 版)
長興寺を中心に住民が増加し、寺院への供物を受け持つ地域を東西に分け、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名が寺の地名と同じになった起こりである。 江戸時代には長興寺村となり、挙母藩(2万石)の領地の一部であった。城下ではなく、農村集落で約400石ほどであった。 明治時代中頃に、周囲の村と合併して根川村となり、更に1906年(明治39年)、城下と合併して挙母町となった。
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