長崎オランダ海軍伝習
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安政2年(1855年)、長崎海軍伝習所が開かれる運びとなって、矢田堀は、勝海舟、永持亨次郎とともに筆頭格で伝習生に選ばれる。ここでも矢田堀は、航海術習得において抜群の才を示した。2年ほどたって、幕府は、幕臣伝習生を教師として、築地に軍艦教授所を設けることを決めた。矢田堀は、その教授頭に選ばれたのだが、伝習所長だった永井尚志も江戸へ帰ることとなり、矢田堀を船将として観光丸での航海が試みられた。伝習生たちは、見事に成果を見せて、江戸へ帰着した。 その翌年、観光丸は佐賀藩に貸し出されることとなったため、再び矢田堀が船将となり、第1期伝習生の手で長崎へ回航された。そのとき長崎には、第2次オランダ人教師団のカッテンディーケがいたのだが、矢田堀の指揮ぶりを次のように賞賛している。 観光丸は艦長格の矢田堀指揮の下に、第1期伝習生徒に操縦せられて、突如長崎に入港し、外国人一同をびっくりさせた。その入港ぶりたるや、よほど老練な船乗りでなければできない芸当である。船と船との間に碇を卸したりする大胆不敵な振舞いをやってのけた。彼等は実に測り知れない自負心を持っている。 — 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』より 矢田堀たちは、2ヶ月後に咸臨丸で江戸へ帰った。
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