長岡牧野家と笠間牧野家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 23:59 UTC 版)
貞通は、自らの嫡子忠敬を長岡牧野家の養子とした。一族ではあるが当時、血縁としては疎遠となっていた長岡牧野家に、自らの家系が傍系であることを認めた上で嫡子を養嗣子としたのである。それまでは、家祖の成儀は新恩をもって旗本に召し出されたのであり、長岡家から家臣と領地の分与を受けていないこと、また成貞が分家をした後に諸侯に取り立てられていたことを盾に、笠間家は長岡家の支藩か否かを明確にしていなかった。 しかしその後も、両藩の実力が伯仲して競争していたため、不仲を伝える逸話や文献が残っている。長岡牧野家の家臣・河井継之助が、1865年に長岡藩江戸藩邸で、長岡藩主・牧野忠恭と笠間藩主・牧野貞直の会談に着座し、貞直に不敬になる出過ぎた発言をしたため、謹慎処分を受けて在所に帰されている。
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