鎗分・太田口の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
「吉田郡山城の戦い」の記事における「鎗分・太田口の戦い」の解説
9月5日、尼子軍の一部が郡山南西にある吉田上村の民家に放火したが、毛利軍は応戦しなかった。 翌6日、早朝の霧に紛れた尼子軍4,500が吉田太郎丸(郡山の南方地域)の町屋敷に放火し、そのまま吉田郡山城に攻撃を仕掛けようとした。しかし毛利軍の激しい抵抗に遭って数十名が討ち取られ、攻撃は失敗する。 9月12日、尼子軍は軍勢を数部隊に分け、再び城下に進出して放火。これに対して毛利方は渡辺通や井上元景などが出陣した。元就は、最初に多治比川を渡って突進させた足軽30人程度をすぐに退却させ、尼子勢に敗走兵を追わせて誘引したところで、鎗分(やりわけ)に潜ませた伏兵で襲うよう指示を出していた。元就の罠に陥った尼子方は、高橋元綱や本城信濃守らを含む数十名が討死する。この戦いは城の南西にある太田口(堀縄手)付近で行われた(鎗分・太田口の戦い)が、同じ日には城の南側正面にあたる広修寺や祇園の縄手でも激戦が繰り広げられている。いずれも尼子軍は撃退されており、風越山の尼子本陣に撤退している。
※この「鎗分・太田口の戦い」の解説は、「吉田郡山城の戦い」の解説の一部です。
「鎗分・太田口の戦い」を含む「吉田郡山城の戦い」の記事については、「吉田郡山城の戦い」の概要を参照ください。
- 鎗分太田口の戦いのページへのリンク