錦莞筵の海外輸出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:37 UTC 版)
錦莞筵を創作後、それを世に出す時期となった。日本国内では売れることが期待できないと思われたため、販路を海外に向けた。明治13年(1880年)春、眠亀は、制作した錦莞筵を数枚携えて神戸にある外国商館に就き、輸出への交渉を行った。当時、神戸で貿易商を営んでいた濱田篤三郎が錦莞筵に見て、試みに数枚の見本を求め、これをイギリス・アメリカに送ったところ、両国の趣好に適合し、注文が来るに至った。濱田は眠亀に製品の供給を交渉したが、当時眠亀は、多年の研究により資金が尽きたため、筵織機をわずか3台しか所有しておらず、海外の注文に応じるだけの生産力がなかった。花筵の有望性を確信した濱田氏は眠亀に資金貸与を行い、そのおかげで眠亀は、筵織機を3台増設することができたため、注文を受けることが出来た。これが、明治時代の日本の重要輸出品の一つであった花筵の輸出の始まりであった。
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