錦莞筵の創作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:37 UTC 版)
数年の間、日夜研鑽し、ついに一種の案が出来上がった。この案により小型の織機を製造し、織り上げたところ、相当に好成績であった。しかし、実用化にむけて筵を織りあげた際、藺草が寸断される問題が発生した。眠亀は、原因として、経糸が非常に多く使用されていたため、伸縮しにくい藺草が緯草として織り込まれるときに寸断されたと推測した。そして、筵を緻密に織り込むためには、経糸の数に応じて緯蘭が幾多波状に屈曲する余裕を持たせる方法を発明する必要があると考えた。その解決策として、筵巾より広い織巾であらかじめ緯藺2条以上を組み込んだ後、徐々に筵巾に圧縮する織り方を案出した。これを実現する方法として独特な梯形の筬を発明し、広い部分にて緯蘭を挿し、狭まる部分で織り込むこととした。その結果、蘭草が寸断することなく級密な筵を織り上げることができた。眠亀は、この発明に続いて、紋様挿織器を考案し、いかなる紋様でも筵に織り出すことに成功した。さらに、眠亀は、藺草の染色改良に着手した。当時、花筵に挿織する藺草の染色法は、草木または泥を用いたもので、染色の質が良くなく、さらに藺草を痛めるものであった。眠亀は、いろいろな染料を試みた結果、ついに塩基性染料を用いて藺草を煮沸することにより染色する方法が最も適当であることを発見した。そうしてついに、明治11年(1878年)5月、眠亀の有名な業績である錦莞筵の創作に至った。
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