鉄牛道機とは? わかりやすく解説

てつぎゅう‐どうき〔テツギウダウキ〕【鉄牛道機】

読み方:てつぎゅうどうき

[1628〜1700江戸前期黄檗(おうばく)宗の僧。石見(いわみ)の人。別号、自牧子。隠元師事宇治万福寺創建下総(しもうさ)の椿開墾尽力。著「自牧摘稿」など。


鉄牛道機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/03 02:35 UTC 版)

鉄牛道機
1628年 - 1700年
諡号 大慈普応国師
生地 長門国石見国説もあり)
没地 下総国匝瑳郡福聚寺
宗派 臨済宗黄檗派
寺院 龍峯寺、萬福寺浄住寺
隠元隆琦木庵性瑫
弟子 鉄崖道空
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鉄牛道機(てつぎゅう どうき、寛永5年7月26日1628年8月25日) - 元禄13年8月20日1700年10月2日))は、江戸時代前期の黄檗宗禅僧。号は自牧子。諡号は大慈普応国師。長門生まれ(石見とする異説もある)。

生涯

因幡国の龍峯寺(鳥取県鳥取市)で修行後[1]、1655年(明暦元年)長崎に滞在していた隠元隆琦に参禅し[1]萬福寺創建に従事した。ついで隠元の高弟木庵性瑫に師事。1659年(満治2年)号を鉄牛、名を道機と改め[1]、その法を嗣いだ。

教禅一致の立場に立って教化につとめ、宇治黄檗山萬福寺の造営に尽くし、京都洛西葉室山浄住寺を中興、相模小田原藩稲葉正則の招きで紹太寺[2]江戸弘福寺などの開山となる。鉄眼道光の『大蔵経』の開版に協力し、下総匝瑳郡椿海の干拓などの社会事業にも力を入れた。

椿海の干拓の功績により幕府から土地を寄進され、その地に福聚寺千葉県東庄町)を建立した[3]

1700年(元禄13年)同寺で没した[3]

脚注

  1. ^ a b c 鉄牛和尚”. www.town.tohnosho.chiba.jp. 東庄町. 2023年9月23日閲覧。
  2. ^ 歴史資料・鉄牛和尚の血書”. 小田原市. 小田原市. 2023年9月23日閲覧。
  3. ^ a b 千葉県. “鉄牛和尚墓”. 千葉県. 千葉県. 2023年9月23日閲覧。



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