鈴木隣松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 04:03 UTC 版)
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保17年(1732年)[1] |
死没 | 享和3年(1803年)[1] |
別名 | 源太左衛門、隣松、珉山、素絢斎、芝山館主人[2][1][3] |
幕府 | 江戸幕府 小十人[3] |
主君 | 徳川家治 |
氏族 | 菅姓船橋氏、藤姓鈴木氏[3] |
父母 | 父:船橋茂伴、母:横山蔵廷の娘 養父:鈴木正友[3] |
兄弟 | 茂也、茂銀、稲田安住、高橋久保の妻、栗田安冬の妻、栗田安冬の後妻[3] |
妻 | 鈴木正友の娘[2][3] |
子 | 山本正邦の妻、正章、芝山正庸、鈴木正住の妻 養子:正住[3] |
鈴木 隣松(すずき りんしょう)は、江戸時代中期の武士、絵師。隣松は画号で、本名は茂銀(しげかね)[1]。
生涯
勘定組頭、小普請を務めた旗本・船橋安右衛門茂伴の次男。同じく旗本の鈴木七兵衛正友の養子となる[2][3][4]。宝暦12年(1762年)養父の致仕に伴い家督を継承。明和2年(1765年)将軍家治に御目見を果たす。明和4年(1767年)から安永3年(1774年)まで小十人を務めた。安永7年(1778年)致仕し、婿養子の正住に家督を譲った[2][3]。
幼時より画に通じ、4,5歳の時に鼠を捕らえる図を描いて人々を感心させたという逸話を残す。やがて狩野典信に師事。宝暦・明和のころになると絵師として大成し、しばしば同じく旗本絵師の加藤文麗、御家人絵師の高田円乗と合わせ、専門家外の三巨手と称された。肉筆画・版画の他、寛政年間には蔦屋重三郎刊の狂歌集にも挿絵をつけている。また狩野探幽や英一蝶の粉本から画譜を出版した[5][1]。
出典
参考文献
- 高木元; 及川季江「『烟花清談』―解題と翻刻―」『千葉大学人文社会科学研究』千葉大学大学院人文社会科学研究科、2009年。
- 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3。
- 『寛政重修諸家譜』 21巻、続群書類従完成会、2023年。 ISBN 978-4-8406-3046-7。
- 『寛政重修諸家譜』 22巻、続群書類従完成会、2023年。 ISBN 978-4-8406-3047-4。
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