醍醐冬煕とは? わかりやすく解説

醍醐冬熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/01 07:30 UTC 版)

 
醍醐冬煕
時代 江戸時代中期
生誕 延宝7年5月4日1679年6月12日
死没 宝暦6年10月9日1756年11月1日
改名 冬実(初名)→昭尹→冬煕
諡号 後信性普明寺
官位 従一位左大臣
主君 東山天皇中御門天皇桜町天皇桃園天皇
氏族 醍醐家
父母 父:醍醐冬基
兄弟 冬熙徳大寺公全、綱姫(津軽信興正室)
宗義真の娘
経胤大炊御門経秀室、広幡長忠
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醍醐 冬熙(だいご ふゆひろ)は、江戸時代中期の公卿従一位左大臣。初名は冬実(ふゆざね)・昭尹(あきただ)。一字名は。号は後信性普明寺

概要

主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の四帝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。

経歴

元禄元年(1688年)に従五位上に叙される。元禄9年(1696年)に従三位左近衛中将となり公卿に列する。権中納言踏歌節会外弁・右兵衛督を経て、宝永元年(1704年権大納言となった。宝永5年(1708年)には皇太子長宮慶仁親王(中御門天皇)の春宮権大夫となる。翌年、皇太子の即位に伴い辞職。正徳元年(1711年)神宮伝奏に任じられ、享保11年(1726年)までの長期間にわたって務めた。その間の享保9年(1724年)には右近衛大将右馬寮御監に任じられている。享保12年(1727年)には踏歌節会内弁をつとめた。享保13年(1728年)には内大臣となるも辞職。享保14年(1729年)には従一位が授与され、延享2年(1745年)には右大臣となるも辞職する。寛延元年(1748年)には左大臣となるも翌年に辞職している。

家族・親族

系譜

醍醐家

醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。

皇室との関係

後陽成天皇男系三世子孫(曾孫)である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

関連項目





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