道家以後の黒沢家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/25 04:33 UTC 版)
黒沢家は久保田城下に屋敷を構え、明治維新まで久保田藩の重臣を務めることになる。 道家のあとを継いだのは角右衛門道廣(1589 - 1640年)で、1623年に父の跡を継ぐ。1629年に江戸屋敷番となり、1640年に病没。家督を継ぐ前は院内銀山運営の補佐を行っていたが、家督を継いでからは足軽隊50人の将を受け持つ。黒沢家は二代道廣と三代道重、十代道興の代で藩の要職につき、その他の代でも大小姓番頭と右筆支配の任務を務めた。歴代の妻の出自は藩の重役を務めた梅津家や、佐竹一門の小場氏などの重臣ばかりで、また娘の嫁ぎ先も同様に大身の家ばかりであった。 黒沢家は久保田城下に屋敷を構えたが、江戸時代少なくとも3度屋敷を移転している。いずれも久保田城下の三廓(中通廓)に屋敷を構え、短い距離で引っ越しを行っている。最後に黒沢家が居住した黒沢家住宅は文政12年(1829年)から居住したもので、東根小屋町(現在の秋田市中通三丁目)にあったが、1989年(平成元年)4月に市へ寄贈され、秋田市楢山の一つ森公園内に移転の上で一般公開された。平成元年には旧黒澤家住宅として国指定重要文化財に指定されている。
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