近江から江戸へ出職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 06:29 UTC 版)
「太田近江大掾藤原正次」の記事における「近江から江戸へ出職」の解説
太田近江大掾藤原正次は近江国栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)出身の鋳物師で始めは代々「太田六右衛門」と称した。近江から江戸にのぼり、町民のために鍋や釜など日用品を鋳造する一方で、寺社の梵鐘や天水桶なども数多く製作した。江戸幕府が文政9年(1826年)から3年に渡り編纂した地誌『御府内備考』には、太田六右衛門とそのいとこ・田中七右衛門が寛永17年(1640年)に江戸の芝へ出職したとある。 また、田中七右衛門の4男・田中千梅が父から聞いた話を享保17年(1732年)にまとめた「深川金屋之興并芝店之由緒」では、太田六右衛門は当初、田中七右衛門の店で働いたとされる。寛永17年(1640年)に田中家の三男・知次(のちの田中七右衛門)が25歳で江戸へのぼり、美濃国の店を閉めた次兄と共に芝の田町に店と工場を構えた。店の経営を次兄が、商品の細工を知次が担当し金屋を開業した。知次は「田中七右衛門」を名乗り、10年ほどして諸国で職人をしていた母方のいとこ・安左衛門(のちの太田六右衛門)を芝の金屋に呼び寄せたという。
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