路線名と区間について
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「名古屋市電葵町線」の記事における「路線名と区間について」の解説
路線名について見ると、平田町 - 赤塚間(山口町線)開業前の1917年末時点では新栄町 - 平田町間の1.060キロメートルを「葵町線」と称していた(新栄町 - 門前町間は「公園線」)が、赤塚開業後の1919年末時点では赤塚 - 門前町間の4.710キロメートルをまとめて「公園線」と称する。1922年8月の名古屋市電成立時も同様に赤塚 - 門前町間が「公園線」とされていた。 市営化後の1923年末時点では、「葵町線」は新栄町 - 平田町間の1.057キロメートルとなり、平田町 - 赤塚間の0.517キロメートルは「山口町線」となった。しかし3年後の1926年末時点では、「葵町線」は新栄町 - 赤塚間の1.575キロメートルを指しており山口町線という路線名はなくなっている。 戦後、1952年(昭和27年)の時点では引き続き新栄町 - 赤塚間の1.575キロメートルを「葵町線」と称する。しかし1962年3月末時点では前述のとおり新栄町 - 平田町間の1.058キロメートルは「葵町線」、平田町 - 赤塚間の0.517キロメートルは「山口町線」である。
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路線名と区間について
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「名古屋市電行幸線」の記事における「路線名と区間について」の解説
名古屋市の資料によると、開業当初の1914年末時点では路線名は「御幸線」であり、その区間は志摩町から本町御門までの1.404キロメートル(本町御門から先は「東片端線」)であったが、1916年末時点では志摩町から平田町までの3.291キロメートルをまとめて「東片端線」と称する。さらに1919年末時点では明道橋から平田町までの2.968キロメートルのみを「片端線」と称しており、1922年8月の名古屋市電成立時も同様に明道橋 - 平田町間が「片端線」とされていた。 市営化後、1926年末時点では「片端線」の区間は本町御門 - 平田町間のみとなり、志摩町 - 本町御門間の1.420キロメートルは「行幸線」となっている。1941年度(昭和16年度)の時点でも「行幸線」は志摩町 - 本町御門間を指すが、戦後、1952年(昭和27年)の時点では「上江川線」が志摩町起点になり「行幸線」の区間は明道町から名古屋城(旧本町御門)までの1.066キロメートルに短縮されている。
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路線名と区間について
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「名古屋市電東片端線」の記事における「路線名と区間について」の解説
名古屋市の資料によると、開業当初、1914年末時点では「東片端線」は本町御門から東片端までの区間を指す(志摩町(上江川線参照)から本町御門までは「御幸線」)が、1916年末時点では志摩町から平田町までの3.291キロメートルを指す。さらに1919年末時点では明道橋から平田町までの2.968キロメートルのみを「片端線」と称する。1922年8月の名古屋市電成立時も同様に明道橋 - 平田町間が「片端線」とされていた。 市営化後、1926年末時点では志摩町 - 本町御門間は「行幸線」となり、「片端線」の区間は本町御門 - 平田町間の1.903キロメートルとなっている。戦後、1952年(昭和27年)の時点では引き続き名古屋城(旧・本町御門) - 平田町間の1.903キロメートルを「片端線」と称するが、1962年3月末時点では路線名は「東片端線」である。
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