越中・能登平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
天正4年(1576年)9月、名目上の管領畠山氏が守護を務める越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城、栂尾城、増山城、守山城、湯山城を次々に攻め落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。 上洛を急ぐ謙信の次の狙いは、能登国の平定であった。特に能登国の拠点・七尾城を抑えることは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で非常に重要であった。当時の七尾城主は戦国大名畠山氏の幼い当主・畠山春王丸であったが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていた。城内では信長に付こうとする長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が主導権争いをしており、激しい内部対立があった。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、徹底抗戦を決した。これにより、能登国の覇権を懸けた七尾城の戦いが勃発する。
※この「越中・能登平定」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「越中・能登平定」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。
- 越中・能登平定のページへのリンク