越中国守護へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:07 UTC 版)
興国元年/暦応3年(1340年)頃に伊賀守護、ついで興国5年/康永3年(1344年)に越中守護に補任された。越中に庄ノ城、千代ヶ様城、布市城、津毛城を築き、越中支配の拠点とした。 興国2年/暦応4年(1341年)3月24日、出雲国・隠岐国守護の塩冶高貞が京都を出奔すると、足利直義によって山名時氏と共に追討軍の主将に選ばれ、数日のうちに高貞を自害に追い込み、討伐を成功させた(『師守記』暦応4年3月25日条および同月29日条)。
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