谷道場に入門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)
松山を出た左之助は大阪に出た。そして後に新選組隊士となる谷三十郎・万太郎兄弟の道場に入門し、免許を得る。といっても門人帳や免許状などそれを裏付ける史料はなく、そう書き残したのは永倉新八のみで、「伊予国松山脱藩鎗術種田宝蔵院谷三十郎門人免許新撰組副長助勤原田左之助」とある。子母澤寛が「新選組遺聞」で左之助を「谷三十郎という大阪の槍の名手に就いて、いつの間にか宝蔵院流を使うようになり」と書いているのはこの永倉の記述によるものだろう。しかし、実際に槍の達人であったのは三十郎ではなく万太郎であり、流派も宝蔵院流ではない。永倉は左之助の流派を「種子田宝蔵院流」としているが、そのような流派は存在しておらず、実際に左之助が学んだのは「種田流」である。 そして免許を与えられた左之助は江戸に向かう。左之助が江戸に出た時期も、どこに住んでいたのかも詳しいことは不明。わかっているのは、いつの日にか市ヶ谷甲良屋敷にあった近藤勇の道場・試衛場に出会ったということだけである。その時すでに試衛場の食客であった永倉新八は自身の回顧録に試衛場メンバーの名前をあげているが、そこに左之助の名前はない。近藤と義兄弟の契りを結び、天然理心流の門人でもあり後援者でもあった小島鹿之助が近藤たちから聴取した情報を書いた記録にも、左之助の名前はない。このことから、左之助は試衛場との接触期間が短かったことが考えられる。しかし浪士組募集に応じて近藤らと一緒に上洛したことは間違いないので、左之助が試衛場にきたのはその浪士募集の報がもたらされる直前だったと考えられる。
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