谷浩弥
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基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | 和歌山県日高郡美浜町 |
生年月日 | 1977年7月1日(47歳) |
身長 体重 |
176 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1999年 ドラフト2位(逆指名) |
初出場 | 2003年6月6日 |
最終出場 | 2003年6月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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谷 浩弥(たに ひろや、1977年7月1日 - )は、和歌山県日高郡美浜町出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
来歴・人物
![]() |
南部高校では2年秋に近畿大会へ出場[1]。1年下に濱中治も投手を務めていた。卒業後は兵庫県の社会人野球・田村コピーに入社してサイドスローに転向。1999年の都市対抗野球では小西酒造で同じ補強選手の三井浩二の後を受けて登板[2]。4ヵ国地域国際大会では日本代表。同年のドラフト会議で読売ジャイアンツを2位で逆指名し入団[3]。
2002年はイースタン・リーグで13勝を挙げ、最多勝に輝く。日本代表としてインターコンチネンタルカップやアジア大会にも出場した。2003年、1軍初登板を果たすも結果を残せず2試合の登板にとどまる。同年オフに戦力外通告を受け、千葉ロッテマリーンズに移籍した。
しかし、移籍後の1軍登板はなく、2004年オフに再び戦力外通告を受け、引退した。
入団前の逆指名会見の日、当時の巨人・長嶋茂雄監督に「あっ、あの田村君ね」と言われてしまい、11月の入団会見では「長嶋監督に早く名前を覚えてもらえるよう頑張ります」と挨拶した谷だったが、その後も長嶋からは「田村君」と呼ばれ続けていたとのこと[4]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2003 | 巨人 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 13 | 1.2 | 5 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 7 | 7 | 37.80 | 4.80 |
通算:1年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 13 | 1.2 | 5 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 7 | 7 | 37.80 | 4.80 |
記録
背番号
- 38 (2000年 - 2003年)
- 63 (2004年)
脚注
- ^ 2000プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社
- ^ - 都市対抗野球80年史
- ^ 朝日新聞スポーツ天国 - 社会人野球、田村コピーの谷浩弥投手が巨人を逆指名。
- ^ "ウグイス嬢や審判、監督もまさかのミス…一軍選手なのに間違えられた「悲しき人々」". ベースボールキング. ライブドア. 2022年5月3日. 2025年6月4日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 谷浩弥 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
固有名詞の分類
- 谷浩弥のページへのリンク