親子説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 09:17 UTC 版)
「アルマンド・ベジャール」の記事における「親子説」の解説
アルマンドをマドレーヌ・ベジャールと親子関係にあると見る研究者たちは、先述のボワローの証言を重んじるだけでなく、モリエールは当然としても、彼に近しい人々の沈黙を不自然だと考えた。モリエールが攻撃されるたびに、反論して彼を擁護していたのに、なぜかこの件についてだけは何も語っていないからである。 ラ・グランジュは生涯モリエールの忠実な部下であり続け、モリエールも彼に全幅の信頼を置いていた。彼は1682年に「モリエール全集」を刊行する際に、序文として簡潔にモリエールの生涯を紹介する文を執筆した。モリエールの死後すでに10年が経とうとしており、アルマンドは再婚していたため、気遣いは誰に対してももはや必要なかった。なおかつ初の公式的な全集の序文であるから、モリエール夫妻への誹謗中傷を否定し、アルマンドがマドレーヌの妹であるなら、その事実を明かして知らせる絶好の機会であるにもかかわらず、ラ・グランジュは一切この件に触れていない。これに加えてマドレーヌがアルマンドに持たせた持参金が、その後結婚したマドレーヌの妹、ジュヌヴィエーヴに持たせた額より遥かに多額であったこと、アルマンドを遺産の相続人として指名したことなどが、「アルマンド=マドレーヌの娘」説の根拠である。
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