西大寺の天才絵師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正安4年(1302年)の興正菩薩叡尊十三回忌供養では、多くの仏教絵画も作られた。供養本尊の木造騎獅文殊菩薩納入品の絵画作品の目玉は、定信と永実による諸尊図像である。しかし、絵師歴7年・数え25歳に過ぎない文観もまた、西大寺を代表する有力画僧の一人として事業に参加している。 たとえば、日課文殊菩薩図像は、珍基という比丘(僧侶)と文観が描いたものの2点が納入されているが、仏教美術研究者の内田啓一の評価では、文観の作品の方が、線も図様も丁寧で巧く、「丸みのある顔や愛らしい目鼻立ち」などに特徴が見られるという。 同年6月16日には、「種字曼荼羅・文殊図像・真言・種字等」と称される作品を制作しているが、自署によれば、これは専宗房・法智房・浄智房という3人の僧から依頼されたものといい、西大寺内で画僧としての名声も築いていたことを物語る。また、紙本淡彩の「八字文殊曼荼羅図」も、落款こそないものの、文殊の愛らしい顔つきなどの画風から考えて、文観の筆であることは間違いない、と内田は主張する。 『大般若経』の奥書と統合すると、文観は正安4年(1302年)時点で、西大寺内において、画僧としても、事業を総括する僧としても、重要な地位にいたとみられる。
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