藤原経家 (権中納言)とは? わかりやすく解説

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藤原経家 (権中納言)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/04 14:12 UTC 版)

 
藤原経家
時代 平安時代中期
生誕 寛仁2年(1018年
死没 治暦4年5月25日1068年6月27日
官位 正三位権中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇
藤原寛子皇后宮職
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原定頼、母:源済政の娘
兄弟 経家藤原信長室、経源、敦平親王
大江定綱の娘
公定、公円
養子:定綱
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藤原 経家(ふじわら の つねいえ)は、平安時代中期の公卿藤原北家小野宮流権中納言藤原定頼の子。官位正三位権中納言

経歴

後一条朝長元4年(1031年従五位下叙爵し、翌長元5年(1032年侍従に任官する。

少納言を経て、後一条朝末の長元9年(1036年正五位下・右少弁に叙任されると、長暦4年(1040年従四位下長久4年(1043年)従四位上・右中弁、永承元年(1046年正四位下、永承3年(1048年蔵人頭兼権左中弁、永承5年(1050年)には正官の左中弁・平定親を超えて右大弁に任ぜられるなど、後朱雀朝から後冷泉朝にかけて弁官を務めながら昇進を重ねる。

天喜4年(1056年従三位に叙せられて公卿に列す。天喜6年(1058年)左大弁を経て、康平4年(1061年参議に任ぜられた。議政官としても弁官を兼帯し、康平6年(1063年正三位に至る。治暦元年(1065年権中納言に昇任し、30年近くに亘って務めた弁官の職を離れた。

後三条朝初頭の治暦4年(1068年)5月25日薨去享年51。最終官位は権中納言正三位。

官歴

公卿補任』による。

系譜

出典

公職
先代
源資通
勘解由長官
1060 - 1066
次代
藤原泰憲
先代
源経長
左大弁
1058 - 1066
次代
藤原泰憲
先代
源資通
右大弁
1050 - 1058
次代
源隆俊
先代
源資通
蔵人頭
1049 - 1051
次代
源隆俊



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