藤原季兼 (南家)
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ナビゲーションに移動 検索に移動藤原 季兼(ふじわら の すえかね、寛徳元年(1044年) - 康和3年10月7日(1101年11月6日))は、平安時代後期の貴族。藤原南家貞嗣流、駿河守・藤原実範の子。本名は季風。三河四郎大夫を名乗る。
経歴
寛徳元年(1044年)に駿河守・藤原実範と壱岐守・小野資通の娘の間に生まれる[1]。
三河国額田郡を本貫として、額田郡の開発領主であり、郡司職にあたった。季兼は、権門の保護を必要としないほどの政治的成長と領城内を支配する武力を持ち、権門、国司、在庁と抗争してその立場を獲得したとみられる[2]。
尾張国の目代となり、尾張国にある熱田神宮の大宮司・尾張員職の娘・尾張職子との間に季範をもうけた[3][1]。当時、熱田大宮司尾張氏は国司と対立しており、季兼にとっては国司代官としての責務を果たすためにも、尾張国の権威を持つ大宮司家の娘との婚姻関係は望むところであった。目代藤原氏と大宮司尾張氏の婚姻の結果、大宮司家と国衛の関係は修復され、国衛領寄進の形態で社領の集積が図られた[4]。
妻・尾張職子の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る[3]。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原南家藤原氏・千秋家による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。
康和3年10月7日(1101年11月6日)に死去。58歳没[3][1]。
系譜
出典
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