薬丸兼成 (新蔵)
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 嘉永3年(1850年) |
改名 | 諱:兼成 |
別名 | 通称:新蔵 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 薩摩藩 |
父母 | 父:薬丸兼武 |
兄弟 | 兼義(半左衛門)、兼成 |
薬丸 兼成(やくまる かねしげ)は江戸時代中期の薩摩藩士。剣客。通称は新蔵。諱は兼成。一般には薬丸新蔵として知られる。薬丸兼武の次男。兄の兼義(半左衛門)と同じく薬丸自顕流の達人として剣聖と称された。
経歴
文政10年(1827年)7月、初お目見え、天保3年(1832年)、父が屋久島遠島。天保14年(1843年)、兄が大島蔵方目付となり、奄美大島に赴任。任期は2年間であったので、この間兄の代理として指導した。弘化元年(1844年)、兄が任期満了につき帰鹿。嘉永3年(1850年)、死去
人物
- 薬丸兼武の厳しい指導の下、兄の兼義とともに薬丸流の修行に励んだ。父が流罪となったため家が貧窮し、兄弟はかぼちゃばかり食べて暮らしたため、「かぼちゃ薬丸どん」と呼ばれた。
- 天保年間の軍制改革により薬丸流は復権したが、後に寺田屋騒動で活躍した鈴木勇右衛門の起請文の宛名が兄の半左衛門と新蔵の連名となっていることから、両名で薬丸流を指導していたようである。
- 多くの弟子を指南したが兄に先立ち死亡した。
参考文献
- 「鹿児島市史III」
- 松下志郎「奄美資料集成」南方新社
薬丸新蔵(やくまる しんぞう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 02:51 UTC 版)
「空也十番勝負」の記事における「薬丸新蔵(やくまる しんぞう)」の解説
薩摩藩領内加治木の薬丸道場で日々厳しい稽古を積む野太刀流の若き遣い手。薩摩藩御家流儀である東郷示現流に対抗意識を燃やしている。薩摩藩内で行われた具足開きで空也と対戦した後に、野太刀流の武名を上げようと江戸へ旅立つ。やがて尚武館道場に訪れ、磐音の知遇を得て小梅村に住み込むことになり、その後三十間堀三原橋近くに野太刀流薬丸道場を開き、長左衛門兼武に改名した。
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