蒔田湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:29 UTC 版)
「大岡川 (神奈川県)」の記事における「蒔田湾」の解説
かつては大岡川本流と中村川の分岐点付近から下流側は、現桜木町駅付近を出口とする釣鐘形の入り江だった。戦国時代は蒔田湾と呼ばれ、蒔田城を拠点として支配した蒔田吉良家の吉良成高や吉良頼康の時代は、港湾の役割を果たした。現在は学問上、かつての入り江は大岡湾と呼ばれる。 室町時代に鶴岡八幡宮の戦いによって鶴岡八幡宮が焼失する事件が起きた際、鶴岡八幡宮の再建事業では笹下川~蒔田湾の水運を利用し木材を運び、更に海運で杉田湊(現在の新杉田駅周辺)に輸送した。蒔田湾に接続していた大岡川では、現在もかつての名残りで材木問屋が複数軒存在する。 蒔田湾(大岡湾)は17世紀半ばから埋め立てられ、吉田新田を始めとする新田の開発が行われた。その南端が中村川上流部に当たり、大岡川本流との間にも数本の河川が残された。横浜港開港後には堀川(中村川下流部)と堀割川が運河として造られた。大岡川本流と中村川の間の河川は明治から昭和にかけて埋め立てられ、跡地は公園(大通り公園等)、首都高速道路等として利用されている。 1981年には上流部から東京湾に直接放流する笹下川分水路が建設された。分水路付近には北見掃部家の発祥地の石碑もある。
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