雀部重政
(蒔田淡路守 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/29 23:55 UTC 版)
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![]() 豊臣秀次に殉死した際の姿を描いたもの。 (絹本著色「豊臣秀次像」の一部、京都・瑞泉寺収蔵。) | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄2年(1559年) |
死没 | 文禄4年7月15日(1595年8月20日) |
別名 | 蒔田淡路守 |
戒名 | 大雄誓義居士 |
墓所 | 知恩院塔頭如意庵 |
官位 | 玄蕃充、従五位下、淡路守 |
主君 | 三好康長→豊臣秀次 |
氏族 | 雀部氏 |
父母 | 父:雀部伊豆守 |
兄弟 | 六左衛門、重政 |
妻 | 佐野綱正娘 |
子 | 重良 |
雀部 重政(ささべ しげまさ)は、安土桃山時代の武士。豊臣秀次の家臣。雀部 淡路守(ささべ あわじのかみ)、蒔田 淡路守(まいた あわじのかみ)としても知られる。
略歴
永禄2年(1559年)、雀部伊豆守の子として誕生。伊豆守は三好長慶に仕え2万8000石を知行していたという[1]。
当初は三好康長に仕える。後に康長の養子となった豊臣秀次に仕え、その馬廻組頭となり尾張国内に2,000石を賜った。天正18年(1590年)10月に従五位下淡路守に叙任され[2]、豊臣姓を賜った。
天正19年(1591年)2月28日、千利休の茶湯の弟子だった重政は、利休の切腹の際に見届け役の一人を務めた。一説には介錯は重政が行ったともされる。
文禄4年(1595年)7月15日、主君・豊臣秀次が改易された際、高野山で秀次の介錯をしたのちに殉死した。享年37。知恩院塔頭如意庵に葬られる。介錯の際に使用された刀とされる銘・南都住金房兵衛尉政次の太刀は兄・六左衛門の手に渡ったとされ、これを子孫が伝承し現在は博物館「大阪城天守閣」に寄贈されている。
姉妹の少将が池田利隆の母・糸姫に仕えそのまま病死したが、利隆が糸姫の様子を尋ねる手紙を自筆で少将に送ったという[1][3]。
子・重良は外祖父・佐野綱正に養育され、徳川家康に小姓として召し出されて旗本となり、近江国内に800石を賜った。
脚注
出典
- 日本史大辞典(講談社)
- 戦国人名辞典(新人物往来社)
- 寛政重修諸家譜
関連項目
- 雨月物語 - 「仏法僧」の登場人物
蒔田淡路守(まいた あわじのかみ)
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「利休にたずねよ」の記事における「蒔田淡路守(まいた あわじのかみ)」の解説
利休の弟子。北野大茶会の奉行を務めた。利休の切腹の見届け役。利休の弟子の中では、最も秀吉の意を汲む。
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