蔣雁行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/14 13:57 UTC 版)
| 蔣雁行 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925)
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| プロフィール | |
| 出生: | 1875年(清光緒元年) |
| 死去: | 1941年(民国30年) |
| 出身地: | |
| 職業: | 軍人 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 蔣雁行 |
| 簡体字: | 蒋雁行 |
| 拼音: | Jiǎng Yánxíng |
| ラテン字: | Chiang Yen-hsing |
| 和名表記: | しょう がんぎょう |
| 発音転記: | ジアン イエンシン |
蔣 雁行(しょう がんぎょう)は中華民国の軍人。字は賓臣。北京政府では直隷派の軍人、特に呉佩孚の腹心と目された。晩年は南京国民政府(汪兆銘政権)に参加している。
事績
北洋武備学堂卒業後に日本へ留学する。1901年(光緒27年)、陸軍士官学校第1期歩兵科に入学した。卒業・帰国後に、江蘇江北督練公署参議兼陸軍第13協協統に就任する。その後、江北都督、江淮検察使に異動した。
1912年(民国元年)、東海荒墾局局長に就任する。1913年(民国2年)8月、江北護軍使に昇進した。1914年(民国4年)、北京政府陸軍訓練総監に異動した。1916年(民国5年)10月、綏遠都統に就任するが、翌年7月に辞任して、いったん引退した。
1920年(民国9年)8月、参謀本部次長に就任し、復帰する。1923年(民国12年)3月、蒙疆善後委員会委員に異動した。民国14年(1925年)10月、呉佩孚の下で14省聯軍総参謀長に任命された。1926年(民国15年)8月、署陸軍総長となる。1927年(民国16年)1月、罷免されて下野した。1931年(民国20年)以降は北平に居住している。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、蔣雁行もこれに参加した。同年5月、蔣は軍事参議院中将参議に任命され[1]、その翌月には参議のまま特任官となった[2]。
1941年(民国30年)、死去。享年67。
出典
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。 ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
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固有名詞の分類
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