草戸千軒町の発掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 21:03 UTC 版)
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていた。 昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明した。 長年埋もれた後に昭和時代になって発掘されたことから「東洋のポンペイ」ないし「日本のポンペイ」といった呼ばれ方をされているが、最盛期に埋没したポンペイとは違い、洪水で完全に川の底に埋まった時期には既に町としては廃絶に近い状態であったとみられている。これは鎌倉・戦国期には度重なる戦乱の舞台となったことで荒廃し福山城が築かれた頃に行われた芦田川の改修事業により洪水対策の流路として改築されたのもあり江戸時代には既に無人であったろうと想像される。
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