聖なるライン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:41 UTC 版)
1969年に岸俊男は、日本の藤原京遺跡のメインストリートである朱雀大路の延長線上に、檜隈前大内陵、菖蒲池古墳、中尾山古墳が存在することを指摘した。1972年に発見された高松塚古墳の壁画をもとに直木孝次郎がそれぞれの古墳の被葬者を推測したところ、マスコミはその直線を「聖なるライン」と名付けて報じて世間の注目を集めたが「聖なるライン」説の意義は学術的には評価されなかった。その後、藤堂かほるが藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があることから、その造営時期を文武天皇の時代とする説を発表したところ、猪熊兼勝がそれを承けて「聖なるライン」説に大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳を加えた、新しい「聖なるライン」説を提唱した。猪熊によれば、それらの遺跡は、すべて東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内に収まることから「聖なるライン」は意識的に作られたものであり、計画したのは天武天皇だと主張している。 小澤毅は新しい「聖なるライン」説について、天智天皇陵からキトラ古墳までは南北2キロメートル弱しかなく、正確に揃えるつもりならばもっと精度を出すことも可能であったはずだが、この範囲で10秒(この地域では約255メートル)は誤差としては大きすぎ、意図して並べたとは考えられないと述べている。
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