老学庵筆記の故事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:57 UTC 版)
宋代に州官となった田登という人物がいたが、「登」と「灯」が同音であったことから任地でその使用を禁じ、それを犯した者は処罰するという通達を出した。住民たちは「灯」の文字が使用できないために「灯」を「火」、「点灯」を「点火」と称するようになった。 元宵節を迎えた際に田登も習慣に従い提灯を準備し民衆に観賞させることにし、その通達文を作成することとなった。しかし「灯」の文字が使用できないため、官衙の官人は悩み、その結果「灯」を「火」と改めることし、「本州依例、放火三日」と通知を出した。 たまたま他の土地からやってきた者はこの通達を見て、3日間にわたって「放火」するものと勘違いし逃げ帰ったという故事が記録されている。 この故事より中国語で官民差別を風刺する際に使用する「只許州官放火、不許百姓点灯」という言葉が生まれ、現在でも使用されている。
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