築山殿殺害の謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:40 UTC 版)
「松平信康#信康自刃事件について」も参照 だが、この通説には疑問点も多く、桑田忠親は「確かな文献には、築山殿が武田と内通したとか、唐人の減敬と密通したとか、信康を共犯にしたとかいうような記事は全く見あたらない。これは彼女が冤罪であった証拠と考えられる。」としたうえで、処刑に際して正当な理由が見つからなかったから、作りあげられた理由とし、家康が築山殿を暗殺したのは、「信康の死を知った彼女が狂乱して事を起こすのを未然に防ぐためだった」とする。また「母子がそろって嫁であり妻である徳姫とおこしたいさかいそのものを家康が問題視した。ぬきさしならないところまで発展させてしまったことに対する責任を、明確にさせたかった。」とする指摘もある。近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている。結婚当初良好であった信康夫婦の仲は、2人の姫をもうけた後に不和となっていたとみられ、当時の書状や日記からみる日程や行動から、家康が2人の仲の修復を試みたとの推測や、この頃、鷹狩として岡崎まできていた信長も、娘夫婦の不和に対し働きかけがあったとの考察もあり、信康の家臣団が、信康をかつぎ家康に叛意を抱くもの・信康に添っているが家康に対しても忠実であるもの・器量を危ぶみ信康に反感を抱くものなどに割れていたことが混乱と粛清に向かったとする説もある。
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