第四銀行への合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 03:21 UTC 版)
「第百三十九国立銀行」の記事における「第四銀行への合併」の解説
第二次世界大戦中の戦時体制下で大蔵省が進めた一県一行主義政策では、新潟県内の銀行は第四銀行への合併・統合が指示されたが、明治初期の国立銀行以来の歴史を持ち、地元に本店を置く百三十九銀行が合併で失われることは死活問題であるとの声が高田市民の中から上がり、1942年(昭和17年)の春から合併反対運動が展開された。高田市会議員や同行役員が大蔵省や在京の有力者らに銀行を存続させるよう陳情・依頼を再三にわたり行ったほか、整理対象から外れるために柏崎銀行と合併して資本増強をはかろうとする動きもあったが、百三十九銀行は結局、1943年3月29日に新潟銀行・柏崎銀行・安塚銀行・能生銀行とともに第四銀行へ統合することが決定し、65年の歴史に幕を下ろした。なお、合併に際しては、第四銀行より283万3,383円の譲り渡し代金と75万円ののれん料が支払われた。
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