空源
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空源(くうげん、永禄6年11月11日(1563年11月26日) - 元和5年8月7日(1619年9月14日))は、大和国郡山出身の日本の僧、安土桃山時代に誕生して後に天台宗に吸収された涅槃宗の開祖。及意上人。イ形院とも。
略歴
- 永禄6年(1563年)11月11日、大和国郡山の武士、橘重氏の次男として、中西善次郎重次の名で生まれる[1]。その後、一家で京の堀河に移住。
- 天正15年(1587年)、父の橘重氏が飛騨国に金山検使(最住銅山)として赴任することになり、飛騨に移住するも、重次のみは再び京に戻る。
- 文禄元年(1592年)、無師独悟して自ら剃髪して、空源と称し、晴明町に庵を結んだ。
- 慶長元年(1596年)5月15日、説法を聞きに来た住友政友を弟子として空禅の法名を与えた。
- 慶長7年(1602年)、後陽成天皇の信頼を得て、涅槃宗が勅許され、及意上人の号を贈られた。本拠地として晴明町に北城金光山涅槃寺を創建した。
- この頃、後陽成天皇勅諚寺として、延暦24年(805年)7月最澄創建の天鷲寺(大坂)を再興、また、北城金光山支院として、最澄、良源ゆかりの東雲寺(近江 川辺)を再興し、新たに光澤寺(和泉 堺)、法安寺(河内國茨田郡下神田)を開山、摂津荒牧の豊学寺も再興した。
- 慶長18年(1613年)、後水尾天皇より、長男の空尊に対し、臺玉上人の号が贈られた[2]。
- 元和3年(1617年)11月15日、後陽成天皇の崩御後、他宗派によって京都所司代に邪教として訴えられ、12月2日、涅槃寺が破壊され、12月26日、江戸に護送、三河岡崎で年を越した。
- 元和4年(1618年)、1月11日、江戸到着。1月16日寺社奉行の前で宗旨を述べ、酒井忠世の下屋敷に預かりとなった。
- 元和5年(1619年)8月7日、同下屋敷で病没した。
弟子
出家の弟子としては、空禅のほか、空位、空越、空證、空運、空悦、空波らがいた。
家族
2男1女おり、長子の臺玉上人空尊は、天海僧正の配慮で、天台宗三明院流として涅槃宗の2代目を嗣いで近江坂本の大覚寺(註: 真言宗大覚寺とは異る)に入寺、次男の賢海は天海の弟子となって寛永寺子院の三明院に入り、娘は空運に嫁いで、念海を産んだ。
伝記
- 『釋及上東流抄』(『泉屋叢考』3,住友修史室、1952年)
参考文献
- 禿氏祐祥「後陽成天皇と涅槃宗」(『龍谷大学論集』353、1956年)
- 向井芳彦「文殊院の研究」(『泉屋叢考』2、住友修史室、1951年)
脚注
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