稲核、夏道・冬道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:08 UTC 版)
概要の通り、江戸時代にはルートは複数あり、脇道もあったが、明治時代になって現在の国道158号-長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線-国道361号にあたる道路が野麦街道として整備された。この時に新設され、江戸時代とは異なるルートをとるようになった部分や、さらにその後の国道整備によって変更された部分も多い。 その1つが、橋場(雑炊橋)-稲核間の3.5kmである。この部分の梓川は、両岸が切り立った岩石地帯と崩落地帯で、人馬の通行を許さないものだった。そのため野麦街道は、梓川右岸の梨子平を通過していたが、この道は牛馬も困難をきたすほどで、荷馬車の通過は不可能であった。そこで、地元の安曇村は、1903年(明治36年)に梓川左岸に、4年がかりの苦難の末に道路を開削した。これにより既に白骨・大野川までの道路が完成していたので、奥地まで荷馬車が通れるようになった。 同様に、橋場(雑炊橋)-波田間でも梓川右岸に道があったが、そこには「かぎかけ山」という険阻があった。しかし、この部分の左岸は平坦で大野田という村落があるほどだった。そこで、梓川の冬の渇水期だけの冬橋を架けていた。橋は春の雪融水が出る前に取り外して保管し、冬になるとまた架けていたのである。冬季に使用されるこのルートを「冬道」と呼び、かぎかけ山を越すルートを「夏道」と呼んだ。この「大野田冬橋」も、1870年(明治3年)に新淵橋に取って替わられ、野麦街道もまた島々から大野田にかけては左岸を通り、新淵橋で右岸に渡り松本に向かうようになった 。
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