秋山源兵衛
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秋山 源兵衛(あきやま げんべえ、明治7年(1874年)9月1日[1] - 大正10年(1921年)7月30日[1])は、山梨県の名望家。貴族院議員。
経歴
山梨県巨摩郡青柳村(現在の南巨摩郡富士川町)の秋山家[注釈 1]に父「源兵衛[注釈 2](長十郎)」、母「とみ」の長男[注釈 3]として生まれ、1875年(明治8年)7月に家督を相続する。
1887年(明治20年)に青柳学校(現在の富士川町立増穂小学校)を卒業すると、同年2月に上京する。神田淡路町の共立学校を経て1891年(明治24年)9月に慶應義塾に入り、1894年(明治27年)7月に卒業とともに帰郷する。1893年(明治26年)11月1日に富士川舟運や製糸業の発展に伴う資金需要の拡大と、折からの銀行設立ブームを背景として秋山家の資産を運用するために秋山銀行を開業し、初代行主となった。
1902年(明治35年)3月10日に青柳郵便局が開局すると、同年3月から1907年(明治40年)12月まで局長を務める。その後、南巨摩郡の郡会議員(在任期間・明治36年9月~明治40年9月)、山梨県会議員(在任期間・明治40年9月~明治44年9月)を務め、大正8年(1919年)9月には多額納税者の互選により貴族院議員に当選し同年10月20日[2]に就任したが、任期半ばの大正10年7月30日に死去した。
秋山家の屋敷は2003年(平成15年)に敷地と建物を当時の増穂町(現在の富士川町)が買い上げ、現在は「あおやぎ宿 追分館」として町のギャラリーやコミュニティ施設として活用されている。
親族
脚注
注釈
出典
参考文献
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、735-736頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社編 平成4年刊
秋山源兵衛 (衆議院議員)
(秋山源兵衛 から転送)
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秋山 源兵衛(あきやま げんべえ、1860年(万延元年5月[1][2]) - 1917年(大正6年)12月23日[2])は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。
経歴
安房国安房郡北条村(のち千葉県安房郡北条町→館山北条町、現・館山市)出身[1]。和漢学を修め[1][2]、酒屋を営み[1]、村会議員、北条町会議員、学務委員、安房郡会議員、所得税調査委員などを歴任する[1]。また、安房銀行監査役となり[1][2]、日本赤十字社の終身社員となる[1]。
1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉8区から進歩党公認で立候補して初当選する[3]。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選する[4]。1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年に死去した。
脚注
参考文献
- 『衆議院議員列伝』山崎謙編、衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
固有名詞の分類
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