石徹白内の温度差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
宝暦5年(1755年)11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)にかけて、石徹白全体の約三分の二にあたる社人が追放されたが、追放された社人の構成を見ると、そのほとんどが中在所、下在所、西在所の社人であり、上在所と小谷堂の社人は少ない。これは上在所は白山中居神社のお膝元であり、同神社の神主である石徹白豊前を支持する人々が多数を占めていたためと見られる。なお上在所の住民で数少ない追放処分者が杉本左近である。 一方、小谷堂で追放処分となった社人が少なかった原因は、宝暦6年3月15日(1756年4月14日)付けで、これまで石徹白豊前の言動を非難してきたことは誤りであり、どのような処分も受けるので、これまで通り石徹白に置いて欲しいという内容の詫び状を、豊前に提出したことによると考えられる。これは小谷堂の住民が追放処分を免れるとともに、反豊前派には組しないとの誓約書の意味もあった。
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