石徹白豊前と権威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
かねてから隠居していた石徹白豊前の父、大和は、宝暦4年閏2月8日(1754年3月30日)に死去した。在京していた豊前は急遽帰郷することとしたが、宝暦4年閏2月15日(1754年4月7日)、石徹白豊前は供廻り24-25名を従えて槍や挟み箱を持たせ、白馬に銀の鞍を乗せ、自らは駕籠に乗り、さらに「下に下に」と掛け声をかけるなど、あたかも大名行列を思わせる、父の死直後の人とも思えぬ華やかな行列を仕立て、石徹白入りをしたと伝えられている。 またこの派手な帰郷時に石徹白豊前は、自らのバックに更なる権威があることを誇示したという。豊前はかねてから五摂家の九条家に献金し、九条家出入りを願い出ていたが、宝暦4年の上京時に正式に九条家出入りを認められ、白山中居神社に九条家の紋章入りの提灯二張を拝領した。吉田家と郡上藩に加えて九条家の権威を利用し、石徹白豊前は強権をもって石徹白支配に乗り出すことになる。
※この「石徹白豊前と権威」の解説は、「石徹白騒動」の解説の一部です。
「石徹白豊前と権威」を含む「石徹白騒動」の記事については、「石徹白騒動」の概要を参照ください。
- 石徹白豊前と権威のページへのリンク