石勒王弥の加入とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 石勒王弥の加入の意味・解説 

石勒・王弥の加入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)

劉淵」の記事における「石勒・王弥の加入」の解説

307年晋朝反乱起こしていた王弥劉霊は共に漢へ使者派遣し恭順の意を示した劉淵王弥とは旧知の仲であったので、その帰順大い喜んで王弥を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事・東萊公とし、劉霊平北将軍とした。ただ、この段階ではまだ正式に漢の傘下入ったわけではなく王弥らはその後単独行動続けていた。 307年10月上党には胡人の張㔨督・馮突が数千の兵を従えて割拠していたが、羯族石勒は彼らを説き伏せて劉淵の下へ帰順させた。劉淵は張㔨督を親漢王に、馮突を都督部大に任じ、さらに石勒を輔漢将軍・平晋王として彼らを統率させた。 当時烏桓の張伏利度は2千の兵を従えて楽平拠点築いており、劉淵以前より何度も招いていたが決し応じてこなかった。同月石勒は張伏利度の下へ偽装投降してその傘下に入ると、張伏利度に従っていた胡人味方引き入れ、さらに頃合い見計らって張伏利度を捕らえると、その部族引き連れて劉淵の下へと帰還した劉淵はこの功績報いるべく、石勒都督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の兵を全て配属させた。 308年5月王弥劉霊と共に洛陽へ侵攻するも失敗したため、劉淵の下へ逃れてきた。劉淵侍中御史大夫派遣してこれを迎え入れ王弥司隸校尉侍中特進とし、その配下である王桑を散騎侍郎とした。 以降石勒王弥は漢の将軍として各地軍功挙げ、その軍の中核為す事となる。

※この「石勒・王弥の加入」の解説は、「劉淵」の解説の一部です。
「石勒・王弥の加入」を含む「劉淵」の記事については、「劉淵」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「石勒王弥の加入」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「石勒王弥の加入」の関連用語

石勒王弥の加入のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石勒王弥の加入のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの劉淵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS