石勒・王弥の加入
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307年、晋朝に反乱を起こしていた王弥と劉霊は共に漢へ使者を派遣し、恭順の意を示した。劉淵は王弥とは旧知の仲であったので、その帰順を大いに喜んで王弥を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事・東萊公とし、劉霊を平北将軍とした。ただ、この段階ではまだ正式に漢の傘下に入ったわけではなく、王弥らはその後も単独行動を続けていた。 307年10月、上党には胡人の張㔨督・馮莫突が数千の兵を従えて割拠していたが、羯族の石勒は彼らを説き伏せて劉淵の下へ帰順させた。劉淵は張㔨督を親漢王に、馮莫突を都督部大に任じ、さらに石勒を輔漢将軍・平晋王として彼らを統率させた。 当時、烏桓の張伏利度は2千の兵を従えて楽平に拠点を築いており、劉淵は以前より何度も招いていたが決して応じてこなかった。同月、石勒は張伏利度の下へ偽装投降してその傘下に入ると、張伏利度に従っていた胡人を味方に引き入れ、さらに頃合いを見計らって張伏利度を捕らえると、その部族を引き連れて劉淵の下へと帰還した。劉淵はこの功績に報いるべく、石勒に都督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の兵を全て配属させた。 308年5月、王弥は劉霊と共に洛陽へ侵攻するも失敗したため、劉淵の下へ逃れてきた。劉淵は侍中・御史大夫を派遣してこれを迎え入れ、王弥を司隸校尉・侍中・特進とし、その配下である王桑を散騎侍郎とした。 以降、石勒・王弥は漢の将軍として各地で軍功を挙げ、その軍の中核を為す事となる。
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