知立疎開時代
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1945年3月には麻布区笄町の自宅が強制疎開の対象となり、4月12日には愛知県碧海郡知立町(現・知立市)で駄菓子屋の離れを借りて疎開生活を始めた。知立町への疎開時代には東海道の松並木、小堤西池のカキツバタ、逢妻川などを作品に残している。知立在住時にはしばしば知立劇場で観劇し、近隣の碧海郡高岡村に住んでいた画家の岩月光金と交遊した。 疎開時代にも手紙を通じて東京の中央画壇との関係を維持し、芸術院美術部会議や日展の審査など必要があれば東京まで出かけて行った。1946年に新文展から名称を変更して日展が初開催されると、鑑査のために東京に赴いている。終戦直後で物資が乏しい時代ながら、疎開時代には年間約30点、計約170点の作品を残しており、風景画と静物画がほぼ同数であった。1951年には文化功労者に選ばれた。三保移住後の1952年にも知立を訪れ、未完だった『知立神社の杜』を完成させている。
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