県営砂防時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 05:26 UTC 版)
1858年(安政5年)に発生した飛越地震の際に立山カルデラで発生した河道閉塞(天然ダム)が決壊し、大規模な土石流が発生した。死者・行方不明者は200~300名に及んだという。その後、立山カルデラから供給され続ける土砂のため、富山平野は度重なる水害に悩まされることとなる。 1906年(明治38年)に、常願寺川本川が湯川等砂防指定地に編入され、翌1907年(明治39年)に富山県営による砂防工事が展開される。当初は湯川上流の多枝原谷で工事が行われていたが、1913年(大正2年)に現在の白岩堰堤付近で湯川第1号砂防堰堤が着工される。 6年の歳月を経て、1919年(大正8年)に湯川第1号砂防堰堤が竣工した。しかし、その年の出水により発生した土石流により被災する。1922年(大正11年)には復旧工事の結果、再び湯川第1号砂防堰堤は復旧を果たすが、同年の集中豪雨災害で再び被災した。これを契機に県は内務省に工事が困難である事を陳情した。
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