白閑亭時代 房総で見つけた理想郷 ―昭和期
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「石井林響」の記事における「白閑亭時代 房総で見つけた理想郷 ―昭和期」の解説
大正15年(1926年)実家に近い山武郡大網町宮谷(現在の大網白里市)にある名刹・本圀寺の境内を借り、八幡神社のふもとに「白閑亭」と名付けた画房を新築する。この白閑とは鳥のハッカンから取られているが、これからも分かるよに林響は非常な鳥好きで、南品川時代から鳥を多く飼っており、白閑亭には四ツ棟の立派な禽舎が建てられ50種もの鳥が飼われ、庭に設けられた丸い池には鴛鴦やガチョウが遊んでいた。この地で野に帰り南画風の自由闊達な筆致で理想郷を描き出す新たな画風は「西に関雪、東に林響」と称賛された。しかし、昭和4年(1929年)3月脳溢血で突如倒れる。10月頃には一時的に回復し筆が取れるようになるが、翌年2月再び脳溢血が起こり逝去、享年45。 弟子に、晩年の数年を内弟子として過ごした秋野不矩、田岡春径など。描いた作品数は650点以上、うち400点弱は確認できるが、展覧会出品作などの代表作が行方不明になって久しい。
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