画僧・宗湛として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 08:42 UTC 版)
出家した宗湛は相国寺に入り、同寺で画僧周文に水墨画を学んだ。寛正3年(1462年)、京都相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府8代将軍足利義政に認められ、翌寛正4年(1463年)に周文の跡を継いで足利将軍家の御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成している。文明5年(1473年)頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」六面の内二面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、伝宗湛作品は平遠山水を特色としている。狩野元信の師にあたる。
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