田中千代 (教育者)とは? わかりやすく解説

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田中千代 (教育者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/29 09:27 UTC 版)

夫・薫とともに(1954年)

田中 千代(たなか ちよ、1906年〈明治39年〉8月9日 - 1999年〈平成11年〉6月28日[1])は、日本の教育者、服飾デザイナー。田中千代学園理事長、田中千代服飾専門学校校長[1]。昭和初期に渡欧し欧米の文化・服飾を学び、日本に近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った。民族衣装の研究・収集家でもあった。

東京外交官松井慶四郎(後に外務大臣)と松井照子の長女として生まれる。照子は鉄道王と言われた今村清之助の孫にあたる。弟に元駐フランス大使の松井明がいる。

来歴

1923年、雙葉高等女学校(現在の雙葉学園)を卒業する。1924年10月に地理学者の田中薫と結婚した。

1927年、東京・御茶ノ水の文化学院大学部に入学。アテネフランセにも通い語学の勉強をする。1928年、薫の欧米留学(文部省在外研究員)に同行し渡欧。ロンドンパリニューヨークに滞在する。渡欧中に語学、服飾デザインを学ぶ。

1930年、スイスバウハウスの初代のメンバーであるヨハネス・イッテンから日本女性として初めて教育を受ける。

1931年に日本へ帰国。帰国途中の船上で鐘淵紡績(現・クラシエホールディングス)の創始者武藤山治の妻千世子と知り合う。翌年、田中は鐘淵紡績の顧問となった。

1933年、阪急百貨店婦人服部の初代デザイナーとなる。同年、心斎橋鐘紡のウィンドウでドレスを発表した。

1937年 兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区岡本)に田中千代洋裁研究所を開設する。

太平洋戦争後の1947年、佐々木営業部(現レナウン)内に田中千代デザインルームを開設した。翌年には財団法人田中千代学園を設立して、理事長・学園長となる(1951年私立学校法の施行に伴い、学校法人田中千代学園へ改組)。

1952年 当時の皇后(香淳皇后)の衣裳の相談役となる。

1957年 東京都渋谷区に東京田中千代服装学園(現・東京田中短期大学)を開校した。1958年 皇太子明仁親王(現・明仁上皇)の成婚に際し、香淳皇后・皇太子妃美智子(現・上皇后美智子)・清宮貴子内親王の衣装の製作にあたる。

1969年には防衛庁の依頼により婦人自衛官の制服をデザインした。

1972年、東京都町田市に田中千代学園短期大学(その後東京田中短期大学)を開校する。

受賞歴

主な著作

  • 『新女性の洋装』南光社、1933年、NDLJP:1241820
  • 『皇后さまのデザイナー : モード随筆』文芸春秋新社、1955年、NDLJP:2476712
  • 『世界の服飾デザイナー20人 : 私の会った懐しい人達とその作品』源流社、1978年、全国書誌番号:78032595

服飾事典

関連文献

  • 西村勝『田中千代 日本最初のデザイナー物語』実業之日本社、1994年、 ISBN 4-408-10146-X

脚注

  1. ^ a b c d e f g "田中 千代". 「20世紀日本人名事典」(日外アソシエーツ、2004年刊). コトバンクより2022年3月21日閲覧

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