王女ポーサハイヌーとイスラーム聖者ポークロンバラウとは? わかりやすく解説

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王女ポーサハイヌーとイスラーム聖者ポークロンバラウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)

チャンパ王国」の記事における「王女ポーサハイヌーとイスラーム聖者ポークロンバラウ」の解説

ディマシュキーの『コスモグラフィー』(1327ごろ)によればチャンパイスラーム伝えられたのは、正統カリフ・ウスマーンの時代7世紀後半)である。しかし、19世紀末にエーモニエ Etienne Aymonier が収集したチャム王名表や、歴史伝承「ダムヌイ・ポーサハイヌー」Damnây Po Sah Inâ によればチャンパ人チャム人)の本格的なイスラーム化15世紀初めに開始された。このころジュクの都(羅皚末年巴的吏初年ヴィジャヤ)にポーシワン Po Siwan が現れイスラーム伝えその子ポーハニインパン Po Haniim Par とポークロンバラウ Po Klaong Barau が、チャンパ南端であるパーンドゥランガ(パンダラン)の、更に西南端であるパジャイ地方避難したバン・アグイの王家の人々イスラーム伝道して、ポーハニインパンは王女ポーサハイヌー Po Sah Ina結婚した。王女ポーサハイヌーとイスラーム聖者ポークロンバラウはパジャイ地方各地聖者廟でまつられている。ポーシワンについては、サマルカンド出身ジャワイスラム伝えたスーフィー・マウラナ・マリク・イブラヒムと同一人物とみなす意見があり、1927年にポールトマンがスマラン発見した三宝華人編年史」(Kronik Tiongkok Melayu, Chinese Malay Annals)が記述する鄭和東南アジア各地派遣した華人ムスリム管理者同一人物とみなす意見があり、その両者ともに同一人物とする意見がある(鄭和による東南アジア華人ムスリムネットワークの設立仮説、この古い仮説はいまも未検証である)。

※この「王女ポーサハイヌーとイスラーム聖者ポークロンバラウ」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
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